ジッケンノート

社会人を目前に初めてジャニーズに落ちた人間がどのような経過を辿るのか記録する

23歳お笑いオタクが突如として関ジャニ∞にハマったのかを考える〜プロローグ〜

先日、ジャニ界隈ではナナナの中の人、お笑い界隈では焼却炉の魔術師でお馴染みの大吉先生こと、博多大吉さんがキングコング西野亮廣氏主催のイベントで語った数で語るジャニーズ事務所の凄さのライブレポがジャニーズファン、特にお笑いを好きだったこともあるジャニーズファンの間で話題になった。
 
私はそのイベントに参加していないので正しい発言はわからないのだけれど、レポによるbase閉館の時期に誤りが見られた為、訂正とレポを読んだ感想のツイートを投稿した。
 
その結果、フォロワー数より多くRTされて、私自身がツイートしたことであるがお笑いとジャニーズの類似と相違についてお笑いファン、ジャニーズファン、掛け持ちファン、全くの外野、それぞれの意見を見ることができ、とても興味深かった。
 
ライブを見た感想の覚え書きとしてのツイートがそのまま真実として受け止められる現状に吉本芸人界のTwitterの先駆者(マンスリーよしもとPLUS2011年11月号)大吉先生がTwitterを休止する事態に陥ったことは残念極まりないが、先駆者として必ず戻ってきてくれるという確信をこめて、人生の半分お笑いオタクを名乗ってきた23歳大学院生が関ジャニ∞にハマった経緯を以下の順で書き記すこととする。
 
 
 0.  プロローグ〜お笑いオタクとしての変遷〜
1.  関ジャニ∞をいつどこで認識したのか
2.  関ジャニ∞ファンになる前
3.  関ジャニ∞ファンになるしかなくなった状況
4.  関ジャニ∞オタクへの道
5.  考察と関ジャニ∞オタクとしての今後
 
0.お笑いオタクとしての変遷
共働き家庭の鍵っ子として育ち、しかも第一子のため、家に帰っても私一人しかいない、無音の家が好きではなくて、帰ると部屋の電気より先にテレビの電源を入れるテレビっ子になる。
寂しいのが嫌なので流す番組は基本的にバラエティかアニメの楽しいもの。
テレビっ子がお笑いオタクとして覚醒したのは小学生5年生の冬(2002年)、めちゃイケ加藤浩次氏の結婚と第一子誕生ドキュメント「結婚と出産のあいだで」(当時流行った冷静と情熱のあいだでのパロ、予告には常に主題歌が用いられていた)を見る。
 
これまで、いかつい芸風の怖い人たちだと思っていた加藤浩次極楽とんぼに30代男性としての葛藤や不安を覚える顔や、それを笑いに変えるめちゃイケの手法、同時期放映していた香取慎吾くん主演「人にやさしく」での俳優の顔、そういう加藤浩次という人の多面性を数ヶ月で一気に摂取したことで好感度がうなぎのぼりになる。
 
2002年夏、夜中に目が覚めて、何となくラジカセを付けて、ラジオのチャンネルを回していると聞き覚えのある加藤浩次の声、テレビでは作れないラジオという特別な空間が生み出す空気感の虜になって、極楽とんぼファンを自認する。(「極楽とんぼの吠え魂(だま)」)
 
と、いうか、冬のドキュメントバラエティを思い出して、結婚するなら加藤浩次みたいな人がいいと本気で思うようになった小学校6年の夏。(好きな芸能人沢山いるけど今でも結婚したいのは加藤浩次
 
その流れで深夜ラジオを聞くようになって、当時30分の録音番組だった「雨上がり決死隊のべしゃりブリン」のリスナーにもなる。
 
それまでの雨上がり決死隊のイメージは宮迫です!の人が去年ドラマ出てていい役だったな(「救命病棟24時第2シリーズ」馬場武蔵役)という程度。
 
べしゃりぶりんで雨上がりに対する好感度を少しずつ上げる中で、深夜番組だったワンナイR&Rがプライムタイムに昇格。
 
10月くず(ワンナイR&R中の宮迫博之山口智充によるコントユニット)の生きてることって素晴らしいが発売→買う。(お笑い系のCD・DVDは生産数が圧倒的に少ないので予約必須であることをここで学ぶ)
 
ちょうど、この年の総合的な学習の時間(ゆとり世代)で、原案からお芝居をつくるという授業で、テーマは命。
 
最後に「みんなで生きてることって素晴らしい」を踊ることになる。
 
いくらワンナイが流行っていようが雨上がり決死隊ファンなんぞ学年に私くらいしかおらず一人最初から完璧に踊れてしまい、クラスメイトドン引き。
 
ここからお笑いオタクを隠すのを止めて積極的に名乗るようになる。
 
2003年春、中学入学。前年秋、パイロット版として放送された雨上がり決死隊のトーク番組が深夜放送だが、アメトークとしてレギュラー放送になる。
 
雨上がり決死隊オタクとして覚醒すると同時に世のお笑いブーム到来。
 
どの番組も一長一短あったが、エンタの神様笑いの金メダル爆笑レッドカーペット、レッドシアターetc…
また、ライブDVDなどを手当たり次第レンタルして、麒麟の面白さにハマったのは中2の冬で、麒麟のラジオが聞きたいが為に深夜にチャンネル合わせて韓国語混じりの関西の電波を受信するようになり、吠え魂、べしゃりブリンに飽き足らず、リアルタイムでANN、録音でJUNKなどととにかく深夜ラジオ漬けの日々を送るようになる。
知ってる!?24時で好きな芸能人にラブレターを送るって企画で加藤浩次への愛をしたためたメールが読まれたときは深夜に声上げてガッツポーズして、母親に不審がられたこともあった。
必死に関西を拠点にする麒麟を追いかけようにも思うようにいかない日々。
テレビ東京夕方のシブスタきっかけでライセンスにハマり、麒麟もライセンスもそれぞれ吉本所有のCSの放送局(ヨシモトファンダンゴTV:2008年3月閉局)でレギュラーを持っていて、定期テストでの好成績と引き換えにCSに加入してもらったのが2005年の夏。
一目散に学校から帰宅し、録画したワイ!ワイ!ワイ!(CSでいいともの真裏で生放送)を見る生活。
2005年10月オリエンタルラジオの台頭によるヨシモト∞(むげんだい)が始まる。
365日5時間生放送(1部オリラジ2時間、ジャンクション30分挟んで、2部ほっしゃん2時間半)、ゲストでオールよしもと芸人登場。
その勢いでよしもとオタクを拗らせた2006年。
7月18日極楽とんぼ山本圭壱未成年少女との飲酒行為、淫行行為により吉本興業解雇。
解雇!?さすがにお笑いオタク5年目そこそこ好きだったコンビの解散、引退は経験してきたけど解雇って。条例違反は許されないことだとわかるけどどうしたらいいの?とパニックに陥る。
21日深夜の極楽とんぼの吠え魂で加藤さんが「解散は自分と山本が決めること」って言って救われたけど泣かずにはいれなかった。
深夜ラジオ聞くようになって丸4年、ラジオで初めて泣いた。
 
極楽とんぼの喪失を埋めるが如くますますよしもとの若手にのめり込む。
M-1ラストイヤー(結成10周年)を迎えるライセンスが月一ライブライセンスvol.ENJOY!!(コント中心の単独ライブはライセンスvol.○:○内は算用数字)スタートする。
新ネタとトーク、後輩とのゲームコーナーの構成。
これまでの単独ともトークライブとも違う構成、私服での漫才スタイルをスーツに改めて、こいつら、M-1獲る気でいるー!!スーツだから取れるとは思わないけど形から入る単純さ好きー!!!
と、好きを拗らせる。
M-1前06年11月のENJOYはこれまでの新ネタから自信作を。
ちょっと不安を感じるネタ(ドラえもん)だったけど、笑いの量なら行ける絶対行く!と拳握って応援していた。
M-1後に当たる年明けのENJOYのチケットも無事ゲットしたし、M-1合わせで始まったライブだけどこれからも続いていくっぽくて嬉しいななんて、浮かれてた。
12月11日正午 決勝出場8組発表。
名前がない!素人コンビの名前があるのにライセンスがない。
確かにM-1優勝できるコンビじゃないけど素人に負けるコンビじゃねえよ!?
ショックでノロウイルスに感染、寝込む。
現実受け入れられなくてゲーゲー吐いた。
翌週12月17日、当時準レギュラーだった週刊少年ジャンプのウェブラジオの公開収録がジャンプフェスタ(幕張メッセ)であり、這ってでもというようなテンションで観に行く。
少なくとも客前では普通に見える彼らに敗者復活での一発逆転を期待して、最前列で祈りを捧げる。
12月20日、実質解散状態の極楽とんぼ、個人的に殿堂入りした雨上がり決死隊は置いておくとして、ライセンス、麒麟の次に好きな、というか、よしもと以外で一番好きなコンビカンニング中島さんの訃報にもうお笑いオタクなんて止めると泣いた。
JUNK2の生はダメラジオで闘病と臨終の一部始終が語られて、全部赤裸々に教えてくれるラジオなんか嫌いだって泣いた。
もうこのままお笑いオタク辞める、友達がハマってる二次元の方が幸せ、紙面の上なら好きなキャラ死んでも転生ネタとかあるもん。とかほざきながら12月24日M-1敗者復活戦の日を迎える。
この日は中島さんの告別式でWSで中継されている様子をぼんやり眺めて、また泣いて、惰性でCSのGAORAで放送されてる敗者復活戦を見て、ライセンスが例年敗者復活する前半組にいる(ネタ順はくじ)ことを確認して、まだお笑いの神様はライセンスを見捨ててない。と一縷の望みを託しながらテレビ越しにネタを見守る。
ネタのチョイスはドラえもん、発想重視のM-1では不利なネタではあるけれども、観客投票の敗者復活戦ならネタの分かりやすさがモノをいう。笑いの量も十分。まだ可能性はある。
 
18:30M-1本編放送開始。
ネタを2組終えたところで、今田耕司氏による敗者復活コンビの発表
 
「エントリーナンバー、3917番!ラ」
「よっしゃー!!!!」
 
当然、イチオシコンビのエントリーナンバーは覚えているものなので食い気味に勝利の雄叫びをあげる。
お笑いオタクとして数日ぶりに息を吹き返した瞬間でもあった。
息を吹き返した瞬間、立ち上がって机の角につま先ぶつけたけど、痛いのは生きてるからだ!みたいな謎のポジティブ発揮してた。
 
敗者復活戦を勝ち上がって、決勝でもドラえもんのネタ。前年の千鳥や翌年のサンドウィッチマンも本人たちが仕上げてきてる敗者復活戦でのネタをぶつけるのは悪くない、でも、ここは発想が重視されるM-1
ドラえもんじゃあ勝ち上がれない。
ちょっとM-1に理解のあるライセンスファンならもう開始数秒で理解した。
ここまでだ。と。
それでも、M-1決勝進出を目標にしてたコンビがストレートではないにしろ決勝の舞台に立っている。
よくやったよ。
結果は6位、準決勝では負けた素人コンビにもちゃんと勝ってくれて溜飲は下げれた。
翌月のENJOYの浮き足立った空気は忘れられない。
立ち見席も人がいっぱいで、当然トークはM-1の話一色で。
よしもとの中ではちょっと顔がいい二人組だったから一気にファンは増えた。
M-1を境にファンは古参と新規に分かれて、私のようなファン歴一年ちょっとの新参も古参に区分される不思議な時代の幕開けだった。
WEST SIDEの禊と噂される謎のザ・ちゃらんぽらん改名騒動(M-1後のこのまま知名度あげていかなきゃいけない大事な時期に島田紳助氏の番組で改名させられるという悲劇)
とんでもないコンビ名のまま、ヨシモト∞リニューアルに伴い木曜日の2部ザ・ちゃらんぽらんの90分スタート
ボケの藤原一裕がRUPの舞台に出演に歓喜したかと思えば、共演者の辻ちゃんできちゃった結婚&降板を有料ネットラジオでぼやいたら炎上騒ぎ
半年でコンビ名元に戻してやっと、M-1バブルの07年が終わると思っていた。
M-1以降ファンを倍増?させて、さらにCSのレギュラーによってよしもとの他のコンビを応援してたファンもライセンスファンになっていって、キャパ500にも満たないルミネには簡単に入れなくなって08年のよしもと男前ランキングには藤原さんが2位、井本さん4位にランクインしてよしもときっての男前コンビって売られるのにモヤモヤして、それでもライセンスが好きで、ルミネのキャパには収まらず芸人史上初のZEPPツアーなんかしちゃったりして、東京はチケット瞬殺だったし、バイト禁止の高校だったから当然オクに手を出したり、遠征することは出来なくて、泣く泣くDVDで我慢したけど普段のライブじゃ使えないような特効(炭ガス)にはしゃぐ2人が眩しくて、ルミネのキャパには入れないし、受験生で数ヶ月に一回の営業を見に行くのが精一杯になってたけど、まだまだ応援してたいって思ってた。
09年3月、よしもと男前ランキング藤原さん1位、井本さん4位。
男前売りが激しくなってくのも苦々しく思ってた。
LIVE STAND(幕張メッセで開催されたスタンディング形式のお笑いフェス)のグッズで顔写真入りの公式うちわが発売、アイドルかよ。って思いながらグッズの売り上げは人気の指標。
売れれば会社としてテレビ局に売り込んでくれるかもしれない、フェスには行けなかったものの売れ残ったうちわはそのまま劇場のグッズショップで販売されていたので、黙って1枚ずつ買った。
大学進学で世間一般の流れと対照的に関東の実家を離れて北東北に住むことになって、ライブに行くことが余計難しくなって、ZEPPでツアーすることが当たり前になって、私も課題や部活が忙しくなって少しずつライセンスから離れていった。
それでも、ヒルナンデスにレギュラーが決まった時はあのライセンスがお昼の番組のレギュラー!?って喜びとちゃんとやれるのかと不安でいっぱいで、毎回必ずチェックして思うように爪痕を残せない彼らに届かない小言を言っていた。
でも、もう、必死になって追っかけなくなってた。
きっと爆発的に売れることはないけどもう解散することはないんじゃないかなって、落ち着いてみれるようになってた。
ライセンス熱が落ち着いてきた頃、ライセンスを必死になって応援してた頃ヨシモト∞ホールで燻ってた東京NSC5期がピカルの定理という旗を掲げて台頭してきた。
ピースと平成ノブシコブシである。
燻っていたという表現をするのは彼らの1つ上の4期は豊作で華の4期、森三中、インパルス、ロバートなどデビュー後すぐにレギュラーを持ち若手の代表格になった。この三組の活躍と比較して裏4期闇4期などと称されるPOISON GIRL BANDコンマニセンチ椿鬼奴などもM-1や深夜番組等では活躍の舞台を与えれていた。
対照的に1期後輩の5期はデビュー直後に三瓶が一世を風靡したのと、大阪の同期格にあたるNSC22期のキングコングが4期とともにはねるのトびらのレギュラーになった以外は取り立ててテレビの仕事もなく、4〜5年は後輩のしずる、ハリセンボン、フルーツポンチ、オリエンタルラジオの後塵を拝することになっていた。
芸歴10年を過ぎて後がなく、失うもののない彼らの作り出す笑いは現状に満足してるんじゃないのと疑わずにはいれないライセンスオタクだった私の胸のど真ん中にヒットした。
世間一般に見て平成ノブシコブシ、吉村はうるさいだけだし、メガネの徳井?ほとんどしゃべんねえじゃんというイメージがあるのは重々承知している。
テレビでの彼らはそのイメージ通りである。
しかし、彼らのホームは劇場でここ数年テレビタレントとして少なからず成功を収めるようになった今でも、隔月コンビでのトークライブ御しゃべり、隔月仲の良い後輩渡辺直美と3人でのトークライブのばなし、隔月吉村は単独でのトークライブ平成独りよがり、隔月吉村が異業種の方を招いてお話を聞く平成の業界人、徳井が親しい後輩と怪しげな儀式を繰り広げる負タケ頑ゴメ煌トクイ(毎月オールナイトライブ)、イシバシハザマ石橋とのトークライブ徳井ハグキと石橋クチビルや、ピース綾部とのトークライブ実録!芸人漂流日記など数多くのトークライブを抱えていて、月に2本から3本はメインで立つトークライブがあるのが強みだろうと感じる。
ピカルの定理きっかけで彼らにハマった私は教育実習の前日に単独ライブに参戦したり、夜行バスでDVD発売記念イベントに駆けつけて、目標達成できなかった吉村に柄杓で水をぶっかけたりしたこともあった。
学歴ロンダリングを目論んで関東の大学院に進学した辺りからお笑いから離れざるをえなくなった。(ブラック研究室 ラボ畜 ピペド アカハラで検索)
朝家を出て日付が変わる頃に帰ってくる日々、中学生の頃から習慣だったアメトーークめちゃイケと、ピカルの定理。この3番組だけは意地で見ていたけれどもその他のゲスト出演番組は追いきれず。
ひと月もしないうちにグルメばかりになっためちゃイケが脱落し、秋が来る前にゴールデンに昇格したピカルの定理があっけなく終了した。
細々とした出演番組を追いかけるのは無理、ライブにも行く時間もお金もない。
お笑いオタク人生、もはやこれまでと。
嫌いになった訳じゃないけど静かにゆっくりとお笑いとの距離が生まれた2013年秋。
 
ここまで読んでくれた奇特な方は途中で気付いたかもしれない。
もう、長すぎて誰も読んでない気がするけど、前振りに大吉先生使ってるけど、お前、base黄金期の追っかけと違うじゃん!!と。
私が好きだったのは中堅芸人とbase氷河期と呼ばれた笑い飯麒麟千鳥のTOP3体制とお笑いブームの陰で燻っていた若手たち。
だからこそ!baseブームの終焉とジャニーズの台頭を一緒くたにされたくなかったのだ。
大吉先生の理論も一理ある。でも、その理論で括れないお笑いオタが何故関ジャニ∞にハマったのか、次章はいよいよ関ジャニ∞との出会いについて引き続き自分勝手な一人語りを続けることにする!